2004.03.16

松本被告の子どもの入学拒否に差別の始まりを見たような気がする

入試には合格したけど松本智津夫の子供だったんで入学させませんでしたーという話

アサヒ・コムから。
松本被告の子どもの入学拒否 和光大、合格通知後に

同大は先月18日、本人あてに合格通知を出したが、入学手続きを通じて、父親が松本被告と知り、入学許可をいったん留保。8日に本人を呼び、被告との親子関係を確認した上で、12日の教授会の了承を受け、学長の判断で入学不許可を決めた。本人には文書で「現時点では本学に迎えることはできない」と伝えたという。
手続き的に不備は無いだろうし、地方自治体の転入届拒否とは性質が異なります。

私が興味があるのは、これが孫になったり、曾孫になったりして、松本智津夫の犯罪のことなんて知らんという世代になってもまだ続くんじゃないか、ということなんです。

これって、新たに始まる差別、ってやつじゃない?
テレビで「オウム」って誰かが言うたびに、先ほどの放送中に不適切な発言がありましたことをお詫びいたします(ペコリ)、とかやるようになるのかしらん?数百年後。

2004.03.02

Production I.G. の辿った路、とかイノセンスとか

アニメ界の「寅」が下請けビジネス変えた プロダクション・アイジー社長 石川 光久さん(45歳)

寅さんは放浪先がビジネスの拠点なので石川社長の放浪とはちがうのだが、人情に深いという点は共通点といえよう。

そんな表皮的な指摘はさておき、石川氏の

アニメビジネスを変えた、と言われる。挑んだのは下請け体質からの脱却。
という狙いは今のところ成功している。氏の Production I.G. はアニメ製作会社のトップブランドとなっているのだ。

アニメのブランドというと、ジブリ、ガイナックス、Production I.G. という順にわたしの頭の中ではリストが組まれている。それ以外の会社はアニメーションの制作主体ではなく、製作工房であり、テレビ局と玩具メーカーと広告代理店がリーダーシップをとって、実製作がそれらアニメの会社、というイメージだ。

(以下断言しているところは私の認知上でという話なのでそれはちがう!という場合はコメントください)

以前はアニメーションの会社が制作主体となることはなく、コピーライトがアニメの会社に留保されるということはなかったようだ。が、石川氏は、それを自分たちのところにもぎ取ることに成功したのだ。

自分たちのもの、とすることが、より高品質な付加価値の高い作品を作ってゆこう、という意欲にも繋がるのであろう。そのように自分たちの仕事の付加価値を高めていこうと努力する点がすばらしいと私は感じる。

日本の労働現場では、目の前の与えられた仕事に精進することが美徳と考えられ、いかにその仕事が重要であるか、または無意味であるか、というような疑いを仕事に対して向けることは「余計なこと考えてるんじゃない」と攻撃される。ある意味考えることを禁止されているような状況だ。

現在の比較的ゆとりがある日本社会の状況では、もう目の前の仕事に精進するだけではなく、その意味を考えたり、その意義を高めることを、行わなければいけないのではないか?


西洋絵画の歴史を考えてみても、初めは教会の壁を飾る故事を語るものとして発達した。絵師は職人であって、そこに現在のアーティスティックな雰囲気は一切なかった。絵を描くということは自己表現の手段ではなく、神の御業に近づく手段でしかなかったのだ。

それになぞらえて考えれば、現在のアニメ製作や、そのほかの労働の中から、未来において「芸術」になりうるものが隠れているかもしれない。

風呂敷が広くなってきたのでこの辺りで止めにしよう。


最後に、
Production I.G. は、付加価値や評価が高い仕事を行うが、同時に小さな仕事もきちっとこなす工房としての立場も忘れない。これはなかなか面白い。と、魁!!クロマティ高校を観ながらおもいましたよ。

2004.02.23

りさタソもえ~

綿矢りさってそんなにいいのだろうか?本人の知り合いではないわたしは遥か遠くから都会の霞を透過して洩れてくるうわさの断片から量るしかないのだが。。。 ultracyzo でサイゾーの過去記事ハケーソ。

綿矢りさってそんなにイケる面なのだろうか。普通の人に若さゆえの魅力が加わった、その上にブンガク的オーラの重合した複合的ミリョクというものがあるのは確かですね。これでメガネまでかけてたら一体どうなったことやら。

ウルトラサイゾーの記事:

 女子高生(およびそれに準ずる若い女の子)に新人賞を獲らせたり、奨励賞なんて名目でネジ込む動きがここのところ目につくようになってきてはいた。『文學界』しかり『群像』しかり。「J文学」の旗振り『文藝』など、1998年以降、入選・佳作とも露骨なまでにすべて女の子。だが、さしたる話題になることはなかった。じゃあ、綿矢りさはなぜこれほど盛り上がっているのか?

2003年の第40回文藝賞、2人は男の人でした。1人は高校生だったけれど、その彼、羽田圭介の「黒冷水」という話、綿矢りさ「インストール」にはない荒削りな若さというものをわたしは感じた。その若さの前には「フェンリルって何しに出てきたんだ?」というような問いも忘れてしまうのだ。ともかく若くないと書けない文もあるのだろうと強く感じさせられる文章だった。他方、綿矢りさの「インストール」からは、「選考委員へ向けての手加減」と、よく推敲され引っかかるような角がきちっと落とされた「円滑な文章」を感じた。間違いなく文才はある。売れるものを書き続けることができるかどうかとは別だけど。

綿矢りさの盛り上がり方には、わたしは倉木麻衣の大学入学での騒ぎ方と共通したものを感じてしまうのだが如何でしょうか。
と、ここまで書いて、なんだかんだいいながら一緒になってりさタソもえ~と言って騒ぎたい自分というのを強く感じてしまうのです。新井素子のときより華がある。(失礼)

おとなしく「蹴りたい背中」を読むことにします。

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