「イノセンス」に映像美と主題の乖離を観てきた
「イノセンス」を観てきたが、観にいってゲッソリしている。それはなぜか。
主題を表現するために不要とも思えるシーンが多く、「映像美」が主題表現と結びついていないのだ。ギミックに走っているが、まさにマヤカシとしてのギミックともいえる。その点が気に入らないのだ。ハリウッド系のよくできた、シーン一つ一つに無駄が無い、厳しいダイエットの結果ともいえる濃縮された映像の連鎖を期待していたのだ。
ストーリーの元ネタは漫画の1冊目にはいっている。
主題が暗示的、主題に対する答えも暗示的だ。
何を読み取るかは人によってちがうと思うが、実体と論理的な存在としての両面(つまりほとんどすべての意味での)アイデンティティーの危機を描いている、と私は受け取った。
この作品、己の気持ちをセリフにして語るところがほとんど無い。語る場合はすべて引用の形である。ストレートにはいわないのだ。これでアメリカ人に受けるかどうかはタイヘン怪しい。ストーリーは単純、派手なアクションシーンはそれなりに派手、エスニックを感じさせる祭りのシーンなどもあるので、その辺で受けを狙うのか。
そんな中で、ストレートな感情発露であるバトーの事件解決時の啖呵が意外と重要。というか、「人形」を軸として葛藤を捕らえた場合、ここですべての回答が示されていると思われる。バトーの「人形」としての矜持みたいなものを感じる。
ご覧になる方は、オタクに対して仕掛けられた罠に囚われることなく、注意して観て、よく反芻していただきたい。
ハリウッド型の「あーおもしろかった」で終わるタイプの映画ではなく、たぶん観終わった後に考える時間が長く、考えることによって観客自身にプラスされる考え方や概念が多いタイプの映画なのだ。これは。
主題と映像美の乖離自体も罠である可能性がある。そのレベルの理解を推し進めるためには、受容しそこなった何かがあるのかもしれない。それはちょっと痛い。
まだ観終わって18時間程度なので、この程度の理解です。
もうちょっと深い理解ができたら書き足すかもね。
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